2024年6月8日

呼吸を練習して「より良く生きる」

  呼吸はツールとして意識的に使うことができるものだと思ってきた。例えば、自律神経系の切り替えツールとして。ヨガの呼吸法には、交感神経と副交感神経をそれぞれ優位にさせるものがあるし、ピラティスやエクササイズでは呼気のタイミングで腹筋を使う。ダンスでは音楽と共に身体を動かすために呼吸を操る必要がある。呼吸のクセが体幹の強さに影響すると薄々感じていたけれど、それすらも抑え込めるようにするのが体幹の強さだと思っていた。

 日常での呼吸を改善するために練習する必要性を多くの人が感じているらしい。アフターコロナはマスク生活を定着させ、精神的だけでなく身体的にも深呼吸することが難しくなった。

そして、きほんの呼吸®︎ を練習する機会を得た。人それぞれ異なる呼吸動作を定量化する試みと併せて、呼吸動作をより良くするためのエクササイズの数々は、すぐに出来なくても狙いが理解しやすく、効果を体験できるところが面白い。目下の課題、風船を膨らませる際に肩と首を使いすぎないこと。


追記

 きほんの呼吸®︎ 呼吸トレーナーLの資格を取得しました。バレエ・テクニック+呼吸、ヨガ+きほんの呼吸®︎、きほんの呼吸®︎をすべての人にお伝えできるようになりました(残念ながら日本語のみ)

 呼吸動作の要である横隔膜。体幹の機能に関わる横隔膜と骨盤底筋群(骨盤隔膜)を連動させるために、呼吸筋を使ってトレーニングしていきます。


2022年8月6日

バレエ・リーブルが幕を下ろす

 バレエ・リーブルが2002年秋にスタートして20年が経ったこの夏、クローズした。

 社会人になってから「バレエ・リーブル所属」の肩書に安穏としてきた私にとって、アイデンティティの喪失にも等しい感じがある。近年は大学での活動が増えたけれど、根っこはバレエ・リーブルにあるからこそ枝葉を伸ばせた=様々な挑戦をすることができたと痛感する。

 バレエ・リーブルに、郷路先生に、20年間もお世話になり、本当にありがとうございました。

2021年11月23日

10年ぶりにヴィーガンの話

  10年前の今頃、私はヴィーガン食生活を実践していた。ヨガインストラクター資格の取得期間中はヴィーガニズムを実践してみる、という指導に則ったもので、私のヴィーガン食生活は数か月間だった。実践中も「カツオ出汁や煮干し出汁が使えない料理は、オイルが多くなるし、味付けが濃くなるから好きじゃないよ~」と思っていて、シャロン先生の著書で「自分を思いやることは地球環境を思いやることと繋がっている」と理解はしても、その後はほぼヴィーガニズムから距離をおいて過ごしてきた。

 ヴィーガンは(どんな理由で実践するにしても)個人の選択であって、例え健康を害する結果になっても個人の責任だ、というのが10年前にヴィーガン食生活を実践した際に、私が認識した周囲からの評価だった。ヴィーガンに興味のない人にヴィーガンの話をしても困惑されて迷惑がられるだけだという体験から、食の選択(食の嗜好?)はプライベートな話だから安易にコメントしない方が無難だと思ってきた。それが、近年そうではなくなったことを知った。

 朝日新聞で月1回発行される日曜版GROBEで「ヴィーガン」が特集された。私が距離をおいてきた10年の間に、ヴィーガンに対する理解や認知度が様変わりしていていた。栄養士は「健康に問題がない」と述べ、研究者は「地球のために必要な取り組み」と評価し、病院や学校では全員にヴィーガン食が提供され、大学生はヴィーガン食生活を実践する俳優をオシャレと認識している。トップアスリートがヴィーガン食で競技成績を残していることが話題になり、ヴィーガン食≒不健康というイメージが消えつつあるのかもしれない。病院や学校でヴィーガン食が提供されるということは、食が個人の選択でなくなったことを意味する。Z世代と呼ばれる人たちは、ヴィーガン食生活の実践を周りの人に呼びかけている。

 「今日はカレー、イタリアン、それともマクドナルド?」と同じような感覚で「今日はヴィーガンにしよう!」という会話をする日が、すぐに来るのかもしれない。10年前の私の言い訳は、もはや存在しなくなっていた。あとは、ヴィーガン食生活を実践するか、しないかだけ…。


2021年2月17日

新型コロナ禍の1年、ヨガとバレエへの影響について考えたこと

 新型コロナ禍の影響がヨガとバレエに大きな変革をもたらしたことを、私なりに考えてみた。制限された対面(リアル)に代わるオンライン(動画配信を含む)という手段は、ヨガとバレエへ及ぼした影響が少し違うと感じている。

 ヨガにとってオンラインは、より多くの人にヨガへのアクセスを容易にしたと言われる。狭い部屋でも気軽に参加でき、凝り固まった心身へアプローチできる、多少でも運動になる、ストレス解消など、ヨガの有益性が大学の一般教養体育において認知されたと実感した。オンラインのヨガは、受講者にとって参加しやすく、コロナ禍での需要に応えるものになった。実際にオンラインでヨガを教えてみると、受講者の反応がリアルタイムでは捉えにくい。受講者の身体が画面から確認しにくいので、ポーズの正確さを指導することは難しくなった。オンラインでヨガを教え続けると、オンラインで伝わりやすい内容に偏っていくかもしれない。例えば、ポーズの形をチェックはできたとしても、受講者がどんな呼吸をしながら身体を使っているか、画面越しに判断することは容易ではない(使用する機器や部屋環境に影響される)。オンラインで伝えられるヨガの内容と、対面で伝えられるヨガの内容には、違いがあるかもしれない。

 バレエにとって、オンラインはコロナ禍での苦渋の選択だった(例、ローザンヌ国際バレエコンクールがオンラインで開催された、世界中のバレエ団が無観客の公演を有料動画配信した)。この選択は、芸術的な視点からみれば致命的なのではと感じる。世界中のほとんどのバレエ団が財政難らしいから、動画配信による収入を否定する気はもちろんない。劇場へ行かなくてもバレエを観られるというメリットは、観客にとっても大きい。ただし、劇場というリアルを捨てる選択は、舞台上のダンサーの踊りで劇場の空気感や雰囲気を観客が各々で味わうというエッセンスを捨てることだ。例えば、スポーツ感動名場面の番組放送で大事なのは、実況アナウンサーによる情感の誘導だと感じることがある。スポーツ感動名場面がキライではないし、すごいと思う。ただし、画面からの試合やスタジアムの雰囲気と空気感は、アナウンサーの言葉から想像しているのであって、本当に現場でリアルに自身で感じたものではない。バレエを観に劇場へ行くのは、ダンサーが踊ることによって観客が味わえる雰囲気や空気感を自身で感じる、味わうことだ。バレエを踊るダンサーを画面から観ても、私の部屋の雰囲気を変えてはくれない。ダンサーが劇場でリアルな観客にむけて踊る機会が減ることは、ダンサーが自身の踊りでその場の空気感を作る、つまり、観客を感動させる能力を失うことになるんじゃないかと思えてくる。その代わり、注目される動画に必要なのは、"すごいテクニック"になるだろう。テクニックの難易度によって観客を感動させられるなら、バレエはスポーツに分類できると思う。でも、バレエで観客を感動させるエッセンスが情感なのだとしたら、逆説的にバレエのテクニックが情感を呼び起こす手段なのだとしたら、バレエは芸術だと思う。ちなみに、バレエの舞台に実況アナは要らない。踊りから何を感じるかは、自由で、個人的なものだから。

2021年2月16日

ブログ10年目、写真を変えました

 コロナ禍での生活が1年を過ぎようとしています。出来なくなったことが、いくつもあります。一方で、出来たことも、いくつかあります。その1つが、写真を更新すること(10年で更新すると決めていたわけではなく、そうなってしまっただけですが)。

 写真は、プロフォトグラファーの秋山逸美さんに撮っていただきました。ありがとうございました!初めてお会いしたのは陰ヨガの講座に参加したときで、写真撮影を担当されていました。その写真がとても素敵だったので、プロフィール写真を撮ってもらうときにはお願いすると決めていました。光の回り方が好きです、と伝えたら、こだわっています!と仰っていました☆撮影が楽しい時間となりました。

 ヘアカットはsalon dakotaの小谷英智香さん。いつも、今回も、ありがとうございます。





2020年2月8日

やっと、文章にしてみた(加筆修正あり)


クラシックバレエとヨガの講師として活動してきて、今更ながら悶々と思うこと(笑)。



 クラシックバレエとヨガにおける身体的な共通点としては、正しいとされる姿勢(静止状態)を習得しなければ、動き(バレエのムーヴメント、ヨガのフロー)の習得が困難になること。姿勢の習得には、身体内部の感覚を養うこと(自己観察)、身体の構造としくみを理解して客観観察の経験を積むことの両方が必要だと考えます。
 クラシックバレエおよびヨガにおける教育の現場では、講師自身の身体感覚の経験を基にして生徒を指導することが多く、身体の構造としくみを理解させ生徒に客観観察の経験を十分に積ませることができているとは言えないでしょう(私自身も含めて)。この問題は、姿勢、ポーズやダンステクニックにおいて、具体的にどの筋を使用することが有効なのか(トレーニングすべきか)に関する検証がまだ十分ではないと感じています。

 クラシックバレエとヨガの姿勢に共通する身体的な特徴として、股関節、膝関節及び足関節の可動範囲がとても大きいことがあります。広範囲に関節可動域を使って、優雅に踊る(クラシックバレエ)又は落ち着いて呼吸する(ヨガ)というのは、かなり特異的な身体の使い方ではないでしょうか。
広い関節可動域で動くためには、関節に作用する筋の体積が大きいと邪魔になり、筋収縮レベルが高すぎると呼吸が制限されて優雅な動きにならない(例えば股関節伸展動作について、大殿筋とハムストリングをメインで使ったところ、呼吸と優雅な動きは実現できなかった)。この個人的な経験に対して、納得のいく説明や解決策を示してくれる知見にはまだ出会えていません。つまり、”広い関節可動域を確保しつつ、負荷(自体重×姿勢)に耐えられる筋力”とはどのくらいか?さらに、その可動域を使って動く(動作)となると、どこの筋をターゲットにすべきか??
そのような基準は恐らくありません。理由のひとつは身体的な負荷の個人差が多きすぎること、特に、動きによる負荷は講師毎(レッスン毎)に千差万別。そのため、身体的な負荷を定量化しにくく、ターゲットが決まりきらない?理由の2つめは、広い関節可動域を得るために必要な筋力どう解釈するか(何をどれくらい必要とするのか)?理由の3つめは、広い関節可動域を使うことに焦点をあてた筋の機能が科学的にまだ十分明らかにされていないこと(少なくとも一般的に知られていない)。例えば、腕を挙げる筋は1つだけではないが、何を根拠にどれを選ぶのか?

 ……ここまで書いて、自分の身体感覚に対して(価値があると信じられる?)根拠、妥当性が欲しいのだ、と今更ながら思い知る。勉強した知識を人に話すことができたとしても、伝えること(話した内容を経験してもらうこと)は困難だった。自己観察から得られた良い(好ましい)身体感覚について人に伝えるために、その根拠がある程度必要だとは思う。
堂々巡りなので、打ち切り。

(漠然としていた思いを書くのに7年もかかったな


2019年6月8日

Dance for PDを体験して考えたこと

 パーキンソン病患者のためのダンス・プログラムがあることも知らなかった。でも興味を引かれた理由は、マーク・モリス・ダンス・グループのメンバーが作り上げたプログラムがダンスの喜びと楽しみを享受できるようデザインされている、という記述。同月、世界パーキンソン病学会が日本で開催されるのに合わせて、彩の国さいたま芸術劇場で行われたDance for PDのシンポジウムとワークショップに参加してみた。


 プログラム創始メンバーの一人であるディヴィッド・レベンサールさんは、立ち姿からダンサーそのもの。デモンストレーションでみせてくれたディヴィッドのダンスは、美しく鮮やかで、見惚れてしまった。マーク・モリス・ダンス・グループの元プリンシパルなのだから、当然なのかもしれないけど。立って踊るのが難しいパーキンソン病患者のために、ダンス・シーケンスやインプロ(即興)パートは椅子に座って踊ることができる。座っていようとダンスは制限された感じがなく、空間を移動できなくても周囲とコミュニケーションするダンスが多いので開放感があった。
 思い出したのは、NDT(ネザーランド・ダンス・シアター)にⅢがあったころ、日本公演(2002年???)で観た「バースデイ」とナハリン振付の「マイナス16」。どちらの作品も前半部分ではダンサーが椅子に座って踊る。座ることで上半身のムーヴメントはよりダイナミックになり、自由にみえた。ダンスのだいご味は回転技やジャンプの高さにあるわけじゃない、と知った。

 Dance for PDのプログラムの特徴として、ディヴィッドが強調したのは「セラピーやリハビリとしてでなく、芸術としてのダンス・クラスを提供すること。なぜなら、ダンスは心と身体をつなぐ認知行動を刺激し、自己表現や感情表現を促し、社会性を養い、喜びをもたらす。従って、ダンス・クラスの指導は身体機能に熟知したスキルを持つ人でなく、ダンサー経験のある人が望ましい。」つまり、Dance for PDのクラスを指導するには、ダンスに慣れていない参加者をダンスへ連れていける雰囲気、美しさ、音楽性、即興性などのアーティストであることが重要、ということになる。ダンスをしたい人にダンス・クラスを提供することはそれほど難しくないだろう。でも、ダンスに乗り気でないかもしれない未経験者に、身体が動かしづらいことも忘れてしまうようなダンス経験を提供するのだ。すごいなぁ…。


 実際にワークショップでディヴィッドのクラスに参加して、とにかく楽しかった。もう脚を高く上げることも、浮遊感のあるジャンプも、キレのある回転もできなくなった私が、踊ることに没頭できるなんて信じていなかったから。久しぶりにダンスを楽しむ経験をさせてくれたディヴィッドに感謝。ニューヨークで彼のクラスに参加できる人たちがうらやましい(笑)。


 その他に、Dance for PDのメソッドは、アダプテッドなダンス・クラスとして成り立つ可能性があると感じた。話は飛躍するが、東京オリンピック・パラリンピック2020が決まってから、見聞きすることが多くなった「アダプテッド・スポーツ」という言葉。その意味あいは、「スポーツのルールや用具を障害の種類や程度に適合(adapt)させることによって、障害をもつ人はもちろんのこと、幼児から高齢者、体力の低い人であってもスポーツに参加することが可能になる(矢部京之介先生・名古屋大学)」。シッティング・バレーボール、ゴールボールやボッチャなどは、健常者と障害者が一緒に楽しめる種目として紹介されることも増えた。ずいぶん前に、体育の授業でダンスが必修となったとき、どんなダンスを授業で取り上げるかが話題になったと記憶している。ダンスを楽しむ人が多くない日本は、つまり、ダンスの楽しさを知る機会が少ないとも言えるだろう。アダプテッドなダンス・メソッドやクラスが充実すれば、もっとダンスを楽しむ人が増えるかもしれない。

 ダンスは想像力や表現力を刺激して養ってくれるはず。それは多くの日本人が苦手としているんじゃなかったかしら。