2026年3月30日

映画『ジョン・クランコ バレエの革命児』を観て

  


クランコについて語れる人たちが集結して作った、もしかしたらドキュメンタリーよりもリアルな映画だと思った。映画に関するレポートは、この記事が読み応えがあります。

 1960年代は、私のお気に入りのバレエ作品が次々と初演された時代で、生まれる前の出来事だから本や解説文を色々と読んで想像を膨らませてきたけれど、当時をこれほどリアルに感じられたことはなかった。バレエの「ロミオとジュリエット(以下、ロミジュリ)」に関して、多くの人は(クランコ版でなく)先ずマクミラン版を観るけれど、クランコがいなければ、マクミラン、ノイマイヤー、キリアンの作品が生まれなかったかもしれない、らしい。

 ロミジュリはクランコ版とマクミラン版を見比べたり(今はどちらも映像があるので、一場ごとに見比べられるけど、20年前はクランコ版の映像が手に入らなかったなぁ)、様々なダンサーで観るのもそれぞれ個性があって、面白い。ダンサーがロミジュリを「生きて」くれれば、どちらの版でも私は大満足です。

 個人的にクランコ版の方が好みの場面があって、ひとつは一幕のバルコニーの舞台セットで、庭木や鉢植えのある邸宅のバルコニー。ふたつめは2幕1場のマンドリンの踊りで、衣装も振付もウィットに富んでいて楽しい。そうそう、この映画を観て初めて知った事実のひとつが、舞台美術家のユルゲン・ローゼを見出したのがクランコだったこと。映画ではロミジュリの舞台セットを2人で構想するシーンがある。ユルゲン・ローゼは、ノイマイヤー作品の舞台美術・衣裳を担当していて、私がノイマイヤー作品を好きな理由はこの舞台美術・衣裳があるからだろうな、とずっと思っていた。クランコ版ロミジュリの舞台セットが好みの理由、明々白々。

 シュツットガルト・バレエを私がリアルに観たのは、2002年の日本公演でロミジュリだった。ロミオ役がウラジーミル・マラーホフで、彼のオーラが圧倒的だったことは今でもよく覚えている(マラーホフは当時ABTとシュツットガルト・バレエでプリンシパルだった)。でも圧巻だったのは、マリシア・ハイデのキャピュレット夫人がティボルトの死を嘆くシーン、凄すぎた。夫人の感情が自分の内臓を掴んできたような体験は、はじめてだった。

 映画でもクランコが言っていた、「言葉で表せない感情を表すために身体を動かせ」。踊るという身体動作が感情を表すためにある、それができるように、稽古しなければならない。そういえば、ヤン・ヌイッツ先生もそう言っていた。「ダンサーの身体は楽器であり、楽器を使って表現をするのだから」

 この映画を観た数日後、ヤン・ヌイッツ先生が永眠されたと聞き、言葉にならない感情があふれて、もう一度この映画を観たくなった。